文書の真贋論争に話を逸らすな…現に言論統制が起きている事実が問題なのだ
放送法の政府解釈の変更に関する総務省内の記録文書が「行政文書」であることを総務相が認めた。そうしたら、その文書に登場する当時の高市早苗総務相がその内容の一部は官僚による「捏造」だと主張した。
何か既視感がある。
かつて、加計学園の獣医学部新設の際にも当時の安倍晋三首相が介入したかが争われた時に似たような議論(結局は押し問答)になった記憶がある。
しかし、国会は法廷ではないのだから、文書の内容の真贋について証明する手続きも判断を下す第三者もいない。だから、そんな争いになったら、モリ・カケ・桜の場合のように、不毛な水掛け論でウヤムヤに終わることは目に見えている。
つまり、行政過程で作成された文書の言葉尻の真贋論争は本来の争点ではない。だから、行政文書を政治家につきつけて、「本物であったら辞職するか?」などという話に持っていった野党の攻め方が間違っている。
問題の本質は、自由で民主的な社会を、異論も許さない専制社会のように変えつつある、安倍・菅政権以来の政治の是非である。
これは、あの文書の一部文言の真贋にかかわらず、安倍政権以来の明白な事実である。
2015年の「戦争法」論争の頃から、安倍首相(当時)は、政府に批判的なテレビの特定番組にまで露骨に反発し、それを、高市代議士を含む側近たちや周辺で仕える官僚たちが拡散していたのは、公知の事実である。
その結果、説明するまでもなく、政府に批判的な言論人は今日ではほとんど地上波テレビから消えてしまった。
憲法21条は表現の自由を保障している。それは、多様な情報が自由に行き交うことにより民主政治が最良の政策にたどり着くという経験則による。にもかかわらず、現状は、政府に都合の良い情報だけが大量にメディアの主流の中を流れている。これこそ、ロシアのような専制に向かっている証しである。
だから、今、野党は、この情報の多様性が失われつつある民主政治の危機を主権者国民に真っすぐに訴えて、選挙による政権交代を追求すべきなのである。
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