岸田首相が靖国神社に“真榊奉納”…憲法原則である「政教分離」を理解していない
靖国神社が明治維新以来、第2次大戦に至るまで、国に殉じた者を祀る神社であることは、歴史的事実である。各国でそれぞれ国に殉じた者を追悼する方法は異なり、それを他国が批判することは要らぬ話である。
しかし、敗戦の反省の下に制定された日本国憲法の下で暮らす現代の私たちは、憲法が改正されない限り現憲法に従う義務がある。
「政教分離」とは、要するに諸宗派の中で特定のものを公権力が優遇or弾圧してはならない……という憲法原則である。アメリカの憲政史の中で磨きあげられて、1947年に日本にも導入された。
それは、全ての宗教が「人格の向上と世界平和」を説きながら、結局、少数派の人権弾圧と戦争の原因になってきた歴史的事実を直視して、特定宗派と国家権力の癒着を禁止する……という結論に至ったものである。それが、思想・良心の自由、表現の自由ひいては民主政治を支えている。
もちろん、国に殉じた先人に感謝して平和を誓うことは正しい。
しかし、だからといって、そのために現に権力を預かる者が、「内閣総理大臣」という肩書を付けて特定宗派の儀式である「真榊奉納」をしてしまっては、特定の神社を「日本国公認」の殉難者追悼施設だと認めた証しになり、露骨な政教分離違反である。まして、その人物が首相でない時には行わなかったその宗教儀礼を首相になった時にだけ行うのでは、なおさらである。
この点について、かつて、小泉純一郎首相(当時)が良いことを言った。「私にも信教の自由がある」。つまり、首相(公人)の地位にある者にも個人(私人)としての信教の自由が憲法で保障されている。だから、8月15日の終戦記念日や春秋の例大祭の折に、堂々と個人として参拝することで「追悼の誠」を捧げることはできるし、すべきだろう。
その際に注意することは、ただひとつ。「内閣総理大臣」という「公人」としての肩書を記帳せずに、玉串料、真榊代を公費から支出しない、それだけのことである。
こうして、たったひとつの節度を守れば憲法問題は解消するはずである。
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