東京柴又・上智大生放火殺人事件「眠るように穏やかな表情…唯一、それだけは安心できた」
小林順子さんの父・賢二さん
1996年9月9日、上智大4年の小林順子さん(当時21)が東京都葛飾区柴又の自宅2階で殺害された事件から26年を迎えた。
◇ ◇ ◇
順子さんの父・賢二さんが第一報を聞いたのは、東北新幹線・新白河駅(福島県)の上りホームだった。前日から栃木県那須で会議があり、帰宅する列車を待つホームで部下と一緒にいた。
「会社から携帯電話に着信がありました。『お宅が火事のようです』と言われ、事件という概念は全くなく妻がパートに出掛ける際に慌てていて、火の不始末でもしたかとしか想像できませんでした。とにかく情報が欲しいと電話をかけまくりました」
大学生で次女の順子さんは夏休み中。2日後に米国留学への出発を控え、自宅にいるはずだった。「無事であってほしい」と祈りながら、「一刻も早く東京に戻りたい」と新幹線に飛び乗った。
「やっとつながった電話は妻の友人宅で、ご主人から『お嬢さんがケガをされたらしく、病院に運ばれたようです』と教えていただきました。この時は『あさっての留学に差し支えがないといいが』と考えるだけで、事件とは想像にも及びません。運ばれた病院に電話すると女性が出て、『小林です』と名乗るとすぐに男性に代わった。一瞬嫌な予感がしました。『お嬢さん、病院に到着した時にはすでに亡くなられていました』と告げられ、ここで初めて娘の「死」を知らされました。頭の中は真っ白、目の前が真っ暗に。あれだけ楽しみにしていた交換留学の出発が明後日だったではないか? 本人はどんなに無念だったかと……」
東京は雨が降っていた。肌寒い日で気温は20度もいかなかった。「一刻も早く」と手前の駅で電車を降り、タクシーで自宅に向かった。現場にはパトカー、消防車、救急車が並び、大勢の野次馬をかき分けて自宅前で名乗り出ると、ある屈強な男性に車に引きずり込まれた。捜査1課の刑事だった。
「お父さん、よく聞いてください。娘さんはただの事故死ではないのです。何者かに殺されたのです。」
ここで初めて事件であることを知らされた。
その瞬間から「なぜ我が家が?」「なぜわが娘が?」「なぜ……なぜ……なぜ……」。この疑問符は未解決である現在に至るまで消えたことがないという。
「亀有警察署に着いて、妻と長女と合流しました。何も知らされていない妻は『早く会わせてくれ。なぜ病院に連れて行ってくれないんだ』の一点張りでした。妻だけが娘の死を知らされていなかったのです。いや誰ひとりとしてその事実を伝えられなかったのです。後に娘と対面したのは、私と伯母、長女で、妻はどうしても見られませんでした。娘は眠るように穏やかな表情をしていて、唯一、それだけが救いでした。
■「まさか未解決になるとは考えてもいませんでした」
時計の針が10時を指した頃、その日の事情聴取が終わった。「今日はここまでにしましょう。お疲れさまでした。」刑事の声にフッと緊張の糸が切れたその瞬間、大変なことに気がついた。自宅は焼けてしまっていて帰る場所がない。付近に気の利いたホテルがあるような地域ではない。「家族が路頭に迷う」とはこのことだと実感しながら、途方にくれていた。すると、温かい手を差し伸べてくれる人がいた。
「妻は、長女が小学生の頃からママさんバレーを続けていて、そのチームメイトの1人が、『良かったらうちに来ない?』と声をかけてくれました。家族4人が生活する4LDKのマンションで、決してスペースに余裕があったわけではなかったでしょうが、とにかく『今夜一晩だけ雨露凌げれば』と明日以降のことまで考える余裕すらなかった。結局そのお宅には1週間お世話になりました。私たち遺族が3人だけで過ごすのもためらわれましたから、本当にありがたかった」
翌日からは現場検証と保険や罹災証明、葬儀などの手続きに追われる地獄の1週間が瞬く間に過ぎた。「並行して新たな住まいを模索していると別のチームメイトの方が物件を探してくれていて、現場から400メートル離れた2DKに移り住みました。私や長女が警察に呼ばれて出掛けている間は、妻を1人にしないよう、付き添ってもくれていました。それはそれは助かりました。私が比較的早く職場に復帰できたのも彼女たちのおかげです」。
小林さんがもっともつらかったのは新居に移って最初の晩だったという。
「それまでは誰かしら取り巻きがいて何とか気が紛れました。ところがいざ3人きりになると寂寥感にさいなまれました。当時の感覚はうまく言葉では言い表せません」
犯人はすぐに捕まるだろうと思っていた。「まさか未解決になるとは考えてもいなかった」と言う。
現場からはA型とみられる血液とDNAが検出されている。その後、事件から12年経って時効制度の撤廃に向けて活動を始めることになる。