東京五輪はスポーツへの嫌悪と絶望ばかりを押し付ける災厄なのだ
東京五輪の開催が強行され、その期間中にコロナの症状が表れたとする。どれほど重篤化しようとも、動員で逼迫しきった医療体制では、入院どころか治療も受けられまい。いや、そもそも診察自体を断られるのではないかと怯えているのは、ひとり私だけではないはずだ。
なぜならこの国では、権力に都合のよいデータをでっち上げる不正が常態化してしまっているからだ。この間の経緯に照らせば、検査を手控えて統計上の「感染者」を増やさず、何もなかったことにすれば問題なし、と踏んでいるのは確実ではないか。
大方の患者とその家族が、自宅待機を強いられよう。伏せってもテレビや新聞を眺めれば、どうせ五輪バンザイ、ニッポン・チャチャチャの大合唱。終われば終わったで、今度はニッポン勝った、22年北京冬季五輪に先んじたドンチャン騒ぎが待っている。国威発揚の前には市井の人間の命など虫けら以下である。
多くの人々が開催以降の世の中に順応する準備を、すでに整えているように思う。最近の世論調査はどれも、五輪中止を求める人の減少を明示した。一時は頑張っているようにも見えた尾身茂会長ら専門家有志の提言も中止や延期の方向性には触れもせず、あくまで開催が前提の、日和りまくったものになっていた。