英宰相チャーチルを知る(下)最期まで保ち続けた“帝国主義者”のメンツ
風刺画(絵①)をご覧ください。このド派手な絵は一体、何を表しているのでしょうか?
■「持たざる国」
世界恐慌後の1930年代、「持たざる国」である日本・ドイツ・イタリアは、各地に相次いで侵略戦争を仕掛けました。
1931年に日本は満州事変を引き起こし、中国東北地方を切り取って「満州国」を建設。35年にイタリアはエチオピアを侵略します。これに先立ち、33年にドイツでナチ党政権が誕生すると、イギリスのチャーチルは警戒心を強めました。絵①は、その様子を日食になぞらえて風刺した作品です。
チャーチルは特に、当時の首相ネヴィル=チェンバレンが行った宥和政策を強く批判します。宥和政策とは、反共主義を唱えるナチ党に譲歩することで手なずけ、その矛先をソ連に向かわせるという外交政策でした。
ヒトラーに徹底抗戦
■第2次世界大戦
しかし、チェンバレンの思惑は外れます。1939年9月1日、ヒトラーはポーランドへの侵略を始めます。その2日後、さすがにイギリスとフランスはドイツに宣戦布告しました。宥和政策の破綻とチャーチルの見通しの正しかったことが証明されたのです。
そして、ドイツ軍が1940年にオランダとベルギーを占領する中、チャーチルはチェンバレンの後任として首相に就任。65歳という遅咲きで、労働党と自由党も加えた挙国一致体制を構築しました。
6月にはフランスがドイツ軍に占領され、7月にはロンドン空襲が始まりました。いわゆる「バトル・オブ・ブリテン」です。この時、飛来するドイツ空軍を探知するレーダー開発が重要な役割を果たすなど、テクノロジーの発展が戦局を大きく左右しました。
チャーチルはヒトラーによる和平要求を断固拒否し、戦い続けることを議会で宣言します(資料②)。トレードマークの葉巻をくゆらし、国民を鼓舞するプロパガンダも意識していました。ちなみに、Victory(勝利)を意味するVサインを世に広めたのはチャーチルです(写真③)。
■資料②
…われわれは海で、大洋で戦い、高まりゆく自信と力とをもって空で戦い…海岸で戦い、野で街で戦い、丘で戦い、決して降伏しないであろう。
(山上正太郎著 人と歴史シリーズ西洋34「チャーチル 第二次世界大戦の指導者」清水書院、1972年から)
■1941年
戦局が動いたのは1941年です。3月にアメリカのフランクリン=ローズヴェルト大統領が武器貸与法を制定してイギリスなどの連合国に軍事援助を開始する一方、チャーチルは6月の独ソ戦勃発を受け、不倶戴天の敵であるソ連と翌年に同盟を結びます。
8月にチャーチルは、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号で大西洋を横断し、ニューファンドランド沖でローズヴェルトと会談。領土不拡大・民族自決・海洋の自由・新たな国際機構の創設などを呼びかける大西洋憲章を発表します。
ただし、大西洋憲章の第3項目に「主権」という言葉をチャーチルが加えています(資料④)。つまり、民族自決原則の適用を、元から独立していた主権国家に限定したのです。チャーチルは議会で、大西洋憲章に関し「インド、ビルマやイギリス帝国のその他部分」の将来にかかわるイギリスのこれまでの政策に影響を及ぼすものではない、と答弁しています。帝国主義者としてのチャーチルは健在でした。
12月8日には、日本軍がイギリス領マレー半島のコタバルに上陸して対英戦争が始まり、その1時間後にはハワイの真珠湾を攻撃して対米戦争が始まります。この時チャーチルは、「これで結局我々の勝ちが決まった」と歓喜したといいます。アメリカ合衆国を正式に第2次世界大戦に引きずり込むことができたからでした。
■資料④
第3項目 両者は、すべての国民に対して、彼らがその下で生活する政体を選択する権利を尊重する。両者は、主権および自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する。
(木畑洋一著 世界史リブレット人097「チャーチル イギリス帝国と歩んだ男」山川出版社、2016年から)
■インドへの締め付け
しかし喜んだのもつかの間、12月10日に戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号が日本軍によって撃沈され、1942年2月にアジア方面の重要拠点であるシンガポールが陥落します。チャーチルはインドが危うくなると考えました。
チャーチルは、インドに限定的な自治を認める取引を始めると同時に、戦争への非協力を貫くガンディーら国民会議派指導層を逮捕して締め付けを強めました。中立宣言を発したアイルランドに対しても同様に、物資供給を遮断するなどの圧力をかけます。さらに、ソ連のスターリンとの間で1944年10月にモスクワで秘密会談を行い、バルカン半島の勢力圏を英ソで取り決めるなどの帝国主義外交を展開しました。
■ポツダム会談と戦後
ドイツの無条件降伏後、1945年7~8月に開かれたポツダム会談は、当初チャーチルが参加していましたが、7月のイギリス総選挙でチャーチル率いる保守党が敗北した結果、新首相に就任した労働党のアトリーが引き継ぎました(写真⑤前列左)。
以後のチャーチルは、退任前の閣議で、在任中に自分が書いた文書や政府文書の閲覧を可能にさせると、それをもとに「第二次世界大戦史」を執筆。1953年にノーベル文学賞を受賞します。また、46年にアメリカのフルトンで行った「鉄のカーテン演説」が有名です。「バルト海のシュテティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸をまたぐ鉄のカーテンが下りてしまった」と指摘して、冷戦の始まりを予見するなど、鋭い感性を見せました。
■晩年
1951年の選挙で76歳にして首相に返り咲いたものの、健康状態の悪化もあって職務を十分に果たすことができませんでした。
晩年のチャーチルは、イギリス連邦解体への動きに対して強く反発し、エジプトの反英運動に、「これ以上生意気なことをするなら、ユダヤ人を仕向けてやつらをドブに叩き込み、二度と浮かび上がれないようにしてやる」と述べたといいます。チャーチルは最期まで帝国主義者としての面目を保ち続けたのでした。
■もっと知りたいあなたへ
「危機の指導者チャーチル」
冨田浩司著(新潮選書、2011年) 1540円