自分の人生に大きな影響を与えた「次郎物語」の「無計画の計画」
敗戦の年となる1945年、ボクは小学校1年生でした。
4~8月の1学期は、戦前の教育を受けています。それが敗戦によって、これまでとは正反対の「戦後の教育」になりました。
敗戦後の2、3年間は、日本の教育にとって最悪の時期でした。教科書はガリ版刷りみたいなもので、先生の数も足りない。学校は荒廃していました。大阪の街が焼け野原になり、教材はなくなり、戦前の教科書も使えない。新しい教科書ができるまで時間もかかります。正式な資格を持たない代用教員がほとんど。学校に行っても授業がなく、ソフトボールばかりしていました。
父は体が弱く、いくつもの病気を繰り返していました。それで徴兵を免除されたのです。実家は自営で自動車の部品を販売していました。といっても物のない時代でしたから、どこかから部品を探してくるのが仕事みたいなもの。車もまだそれほど一般的ではない時代でした。
ボクが生まれた38年は真珠湾攻撃の3年前です。41年に戦争が始まると、しばらくしてから父、母、妹の4人で大阪府豊能郡箕面村(現・箕面市)に疎開しました。疎開といっても集団疎開ではなく、近くの親戚を頼ったのです。阪急牧落駅近くの箕面小学校に入学。戦争中、幸いなことにそばに爆弾が落ちることはありませんでしたが、家の窓ガラスが割れるのではないかと思うほど、爆弾が落下するときのものスゴい轟音を何度も聞きました。今でもはっきり覚えています。