戦死しても“英雄”にはなれない みんなで勇気を持って「非国民」になろう
安倍元総理は、日本の防衛費を現状の2倍のGDP比2%にしろと発言した。彼に聞きたい──それで戦争になったら、あなたは前線に立てますか? 日本のために死ねますか? ずっと後ろの安全地帯から見ているだけでしょう。実際に戦地で命を懸けるのは若者たちなんですよ、と。
たとえば今、ウクライナで「戦争反対」と言ったら“非国民”扱いされるだろう。だが私はあえて、「みんなが非国民になればいい。近い将来、プーチンは病気で死ぬ。そうすれば戦争は終わる。もう少しの辛抱だ。無駄死にすることはない」と勧めたい。時に国は「命を投げ出して国を守れ」と国民に命じるものだが、戦争で死ぬのはまったく無益なことだ。
私たちは再びそこに価値を見いだそうとする世界の潮流に直面しているが、もはや戦死しても誰も「英雄」にはなれない。
日本人は約80年前に経験している。戦前の日本において国に殉じるのは国民の義務であり、最上の誉れとされていた。それが誤りだったことは歴史によって証明済みだ。
「立派に戦って死んでまいります」と言って出征した青年たちは、最前線で気づく。自分たちが使い捨ての駒であり一兵卒の命など国にとって取るに足らぬものであることを。そして戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」の文言に縛られて逃げられず、限界を超えた持久戦を余儀なくされ、多くの人が餓死した。彼らにも人生があり、家族や恋人があり、将来の夢もあったはずだ。戦争がそのすべてを台無しにした。死んで「英雄」や「軍神」と呼ばれたとして何になるだろう。彼らを覚えているのはごくわずかな身内だけだ。すぐに時のかなたに忘れ去られる。