西牟田靖
著者のコラム一覧
西牟田靖ジャーナリスト、ノンフィクション作家

1970年、大阪府生まれ。国境や家族などをテーマに執筆。著書に『ニッポンの国境』『本で床は抜けるのか』『わが子に会えない』など。

「金嬉老事件」は温泉地としてはこれから…というときに起こった

公開日: 更新日:

金嬉老事件(1968年)

 1968(昭和43)年2月20日、南アルプスの山中、寸又峡で、スコープ付きのライフルと大量のダイナマイトを持った男が温泉宿に押し入った。経営者や宿泊客13人を人質にして、旅館2階の6畳間に88時間も立てこもったのだ。犯人は在日韓国人2世の金嬉老(当時39)。事件発生から半世紀以上がたった温泉街を訪ねた。

 ◇  ◇  ◇

 金嬉老は、立てこもり現場に取材陣や警察を受け入れ、何度も記者会見を開いて、自身の要求を世間に伝えた。長さ500メートルあまりの温泉街には、お土産屋を兼ねたそば屋があったり、温泉宿があったり……。派手なネオンやコンビニもなく、質素で風情にあふれている。

 事件現場となった「ふじみや旅館」(2012年1月廃業)の建物は現存している。隣接する「光山荘」を訪ねると仲居さん(70代)は、「そちらになります」といって窓の外を指した。

 窓越しに会話ができるほどの至近距離に瓦屋根の建物が見える。苔むしており、瓦自体、白く色落ちしていて、いかにも古い。

「建物は当時のままのようですよ」

 窓を開けたところを金嬉老に撃たれたら、確実に致命傷を負っていただろう。怖い思いをしたのだろうか。

 光山荘から通りに出て、ふじみや旅館をしばらく見つめた。ふじみや旅館の前を通る幼児連れやカップルたちは、誰もが立ち止まらずに通り過ぎた。事件のことを知る者は誰もいなそうだった。

 光山荘の女将が振り返った。

「登山者には有名でしたけど、温泉地としてはこれから、というときに起こった事件でした。それまで寸又峡は全然知られていなかったんです」

 3キロあまり離れたところにある源泉を引っ張ってきて、寸又峡温泉が温泉街としてスタートしたのは1962(昭和37)年。光山荘はその翌年である63年に創業している。

「ここに来て間もない頃でした。この宿に嫁いだんです」

 隣接するふじみや旅館で事件が発生したとき、どうしたのか。

「警察から連絡があって、うちの他、周囲5軒が避難しました。離れたところにある他の旅館に(事件解決までの)5日間お世話になりました」

 現場から離れている他の宿はどうだったのか。

「警察や報道陣が詰めかけて繁盛していましたよ」

 危ないことに遭うことはなかったのか。

「(2月21日午後3時すぎ)男(金嬉老)が銃を持って外に出て、歩き回っていました。男は時折、銃を乱射してて。義父(光山荘の主人)は逃げるとき撃たれたんだと思います(裁判資料を読むと光山荘の主人が撃たれたという記述はなし。金嬉老は、ふじみや旅館の主人を伴って光山荘を訪れ、ふじみや旅館へ移動するよう命令した)。後で男は『あれは電柱を狙っただけだ』と言ったんですけどね」

 立てこもった2階部分の部屋は今も残っているのか。

「当時あった建物は今よりずっと小さかったです。その後、建て替えました」

旅館は10年前に廃業

 事件によって、寸又峡温泉は全国に知れ渡り、観光客がたくさん押し寄せた。ふじみや旅館が建物を建て替えたのは、事件のことを忘れたいという気持ちと、たくさん来るお客さんを満足させるためだったのだろうか。

「ふじみや旅館は10年前にやめちゃって、建物は他の人に売られました。今も人は住んでるようですけど、営業はしていません。女将さんは数年前に亡くなったと聞いています」

 事件は遠くなった。

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