多民族国家「ユーゴスラヴィア」誕生と分裂(下)オシムが解かした民族対立
皆さんは写真①の人物を覚えているでしょうか? サッカー元日本代表監督のイヴィツァ=オシムですね。惜しくも、今月1日に亡くなりました。日本のサッカーに未来の希望を見せてくれたオシムに敬意を表しながら、彼の生まれ故郷であるボスニアと、多民族国家ユーゴスラヴィアの歴史を振り返りましょう。
■カリスマ指導者ティトー
1941年5月6日、オシムはボスニア・ヘルツェゴヴィナのサライェヴォに生まれました。当時のユーゴスラヴィアはヒトラーのドイツによって占領されており、国内では、後にユーゴスラヴィア連邦大統領となるティトーらがパルチザン闘争を続けていました(写真②)。「ティトー」とは、「君は(ティ)・あれを(トー)」という口癖からついたあだ名です。
ティトーらユーゴスラヴィア共産党は独ソ不可侵条約により、ドイツ軍と積極的に戦うことができませんでした。しかし、ヒトラーが独ソ戦を始めると、ゲリラ的闘争であるパルチザンがユーゴスラヴィアで盛り上がります。
この時、ユーゴスラヴィア共産党は、ドイツという共通の敵と戦うため、国内の民族の違いを超えた紐帯をつくり出すことに成功します。これが戦後のユーゴスラヴィア連邦人民共和国の誕生につながりました。
■ソ連と異なる独自路線
これまでの経緯から見えてくるのは、社会主義を標榜するユーゴスラヴィアは、ドイツ軍をソ連の力ではなく自力で追い出して国家の独立を実現させたという事実です。そのため、ソ連型の社会主義とは一線を画し、労働者による自主管理や非同盟を掲げる独自路線を採用することができました。
1948年には、ソ連のスターリンとの対立から、ヨーロッパの共産党の連絡機関であるコミンフォルムを除名され、東欧諸国による支援も途絶します。しかし、ティトーのカリスマ性もあって、「7つの国境線、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、そして1つの国家」といわれる多民族国家ユーゴスラヴィアは、なんとかまとまりを維持し続けました。
■代表選手から監督へ
さて、オシムは幼少から遊びを通じてサッカーに親しみ、テクニックあふれるサッカー選手に成長します。家庭の事情から数学教師への道を諦め、プロ選手となりました。ユーゴスラヴィア代表にも選ばれて1964年の東京オリンピックでは、日本戦で2ゴールをあげています。
その後、フランスのチームへの移籍を経て、1978年にサライェヴォに戻り、86年にはユーゴスラヴィア代表監督に就任します。代表監督として、ストイコビッチをはじめとする若く優れた選手たちを抜擢し、90年のイタリアW杯ではベスト8まで勝ち上がって世界の注目を集めました。
■内戦の恐怖
しかし、この頃からユーゴスラヴィアに不穏な空気が流れます。まず、カリスマ的存在だったティトーが1980年に死去。そして、80年代後半からソ連のゴルバチョフ書記長(当時)が「ペレストロイカ」(改革)を進めたことにより、東欧諸国の自由化が進展していきました。
多民族国家ユーゴスラヴィアにとって、異なる民族をまとめてきたカリスマの死と自由化の波は、国家を構成していた6つの共和国の分離独立の動きにつながりました。皮肉なことに、諸民族の平等を謳ってきたことが「あだ」となったのです。
その後、91年にスロヴェニアとクロアティアがユーゴスラヴィアからの独立を宣言し、内戦が始まります。翌92年にはオシムの故郷であるボスニア・ヘルツェゴヴィナも独立を宣言しますが、ここにはセルビア人やクロアティア人、ムスリム人と呼ばれるイスラーム教徒がほぼ3分の1ずつ居住しており、泥沼の内戦へと発展してしまいます。
■墓が足りない
写真③をご覧ください。これは一体、どこの何の写真でしょうか? 実は、1984年にサライェヴォで開かれた冬季五輪のメイン競技場でした。ボスニア内戦の犠牲者を納める墓地が足りず、グラウンドに埋めたのです。平和と民族融合の祭典を開いてから10年も経っていないのに、そのような状況になるとは一体、誰が想像したでしょう。
この時、オシムの妻と長女はサライェヴォでセルビア人勢力から包囲攻撃を受け、爆撃とスナイパーによる狙撃に怯えながら2年にわたり過ごしました。オシムは内戦に抗議し、惜しまれつつもユーゴスラヴィア代表監督を辞任します。
■考え、走るサッカー
オシムはその後、ギリシアとオーストリアのクラブチームの監督を務め、2003年に日本のジェフユナイテッド市原の監督に迎えられます。Jリーグの他のどのチームよりも走り、どのチームよりも考えるサッカーを展開し、ピッチに選手が12人もいるのではないかと思わせるような「未来のサッカー」を見せてくれました。
そして、05年のナビスコカップに優勝し、06年から脳梗塞で倒れる07年までオシムは日本代表監督を務めてくれました。これがオシムの体に負荷をかけてしまったのではないかと、つい考えてしまいます。
■偉大な功績
3年半も続いたボスニア内戦は1995年、アメリカのオハイオ州にある空軍基地で交わされたデイトン合意をもって終結。ムスリムとクロアティア人のボスニア連邦と、セルビア人共和国(スルプスカ共和国)の2国家が併存することになりました。その後、08年にセルビアからコソヴォが一方的な独立を宣言し、ユーゴスラヴィアは内戦を経て、最終的に7つの共和国に分裂しました(地図④)。
さて、内戦によってサッカーの国際試合から追放されていたボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、ムスリム人とクロアティア人、セルビア人がそれぞれサッカー協会をつくって対立していました。政治がサッカーの世界にも持ち込まれていたのです。この時オシムは「正常化委員会」の委員長として、対立する3民族の協会幹部を粘り強く説得し、ついに一本化に成功します。オシムの人望なくしては実現できない「奇跡」でした。
こうして国際試合への参加を認められたボスニア・ヘルツェゴヴィナは、プレーオフでW杯ブラジル大会(2014年開催)への出場を勝ち取ります。政治ができなかった民族対立の解消を、オシムはサッカーを通じて実現しました。実に偉大な人物だったと言えるでしょう。
■もっと知りたいあなたへ
「オシムの言葉」
木村元彦著(集英社文庫 2008年) 748円
◆本連載 待望の書籍化!
「『なぜ!?』からはじめる世界史」(山川出版社 1980円)