著者のコラム一覧
増田俊也小説家

1965年、愛知県生まれ。小説家。2012年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。現在、名古屋芸術大学客員教授として文学や漫画理論の講義を担当。

「バガボンド」(既刊37巻)井上雄彦作

公開日: 更新日:

「バガボンド」(既刊37巻)井上雄彦作

 未完の大作「バガボンド」。井上雄彦が命がけで描き続ける宮本武蔵の評伝漫画だ。原作を吉川英治の小説「宮本武蔵」とするが、実際に読むと、ストーリーも肌触りもまったく違う。インスパイアされたのは確かだろうが、これは井上雄彦独自の宮本武蔵伝だ。

 吉川英治だけでなくこれまで多くの小説家たちが武蔵の全体像をつかむことに心血を注いだが、誰も近づけなかった。井上雄彦は1998年、その未踏峰に週刊モーニングの連載で挑んだ。

 冒頭に書いたように本作は未完だ。どころかこれまでの作品が最大のヤマ場とした佐々木小次郎との巌流島決戦にすら到達していない。そして2015年に力尽きたように連載は止まってしまう。

 しかし宮本武蔵の実像に井上が極限まで近づいていることは、吉岡一門との決闘を読めばわかる。単行本でいえば26巻と27巻の2巻に及ぶ凄絶な斬り合いだ。

 1人対70人。絶望的な戦いを泥濘地で続ける宮本武蔵。斬って斬って斬りまくる。延々と続くこの殺戮に、読者は勝利を知っていてさえ、いつ武蔵が斬られて倒れるかと心臓の鼓動を速めながらページをめくる。

 息は切れ、大けがを負いながら、武蔵は刀が折れれば敵方の死体から抜き、ときに頭突きまで使って泥と血にまみれて戦い続ける。この大量殺戮に意味があるのかと自問しながらの戦いである。

 井上雄彦のペンと絵筆は容赦ない。髪を振り乱して死んでいく吉岡の門弟たちを当人の視点から描く。彼らは1人ずつしゃべりながら死ぬ。しかし武蔵はほぼ無言。ただ斬り、殺人を続ける。

 この恐ろしい殺人描写。商業作品において延々と殺人を描けたのは奇跡的なことだ。その奇跡を得たのは「SLAM DUNK」で築いた名声と実力をすべて注ぎ込んだゆえだ。ほかのあらゆるジャンルの芸術家たちが成し得なかった領域に井上雄彦だけが頬を寄せるほどまで近づくことに成功した。いまだ物語を完結せず中断に至っているのにである。つまり未完の中盤なのに既にして宮本武蔵の人生の全体像をつかんでいるのだ。

 バガボンドとは英語で放浪者や無宿者をいう。いま放浪しているのは宮本武蔵ひとりではない。井上雄彦との2人旅だ。いつか連載が再開したときには剣の天才とペンの天才のさらなる高みへの登攀が始まるだろう。

(講談社 957円)

【連載】名作マンガ 白熱講義

最新のBOOKS記事

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1

    「とんねるず」石橋貴明に“セクハラ”発覚の裏で…相方の木梨憲武からの壮絶“パワハラ”を後輩芸人が暴露

  2. 2

    フジ火9「人事の人見」は大ブーメラン?地上波単独初主演Travis Japan松田元太の“黒歴史”になる恐れ

  3. 3

    PL学園で僕が直面した壮絶すぎる「鉄の掟」…部屋では常に正座で笑顔も禁止、身も心も休まらず

  4. 4

    石橋貴明のセクハラに芸能界のドンが一喝の過去…フジも「みなさんのおかげです」“保毛尾田保毛男”で一緒に悪ノリ

  5. 5

    三浦大知に続き「いきものがかり」もチケット売れないと"告白"…有名アーティストでも厳しい現状

  1. 6

    松嶋菜々子の“黒歴史”が石橋貴明セクハラ発覚で発掘される不憫…「完全にもらい事故」の二次被害

  2. 7

    伸び悩む巨人若手の尻に火をつける“劇薬”の効能…秋広優人は「停滞」、浅野翔吾は「元気なし」

  3. 8

    今思えばゾッとする。僕は下調べせずPL学園に入学し、激しく後悔…寮生活は想像を絶した

  4. 9

    フジテレビ問題「有力な番組出演者」の石橋貴明が実名報道されて「U氏」は伏せたままの不条理

  5. 10

    下半身醜聞の川﨑春花に新展開! 突然の復帰発表に《メジャー予選会出場への打算》と痛烈パンチ