山﨑武司 これが俺の生きる道
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「もう野球やめたる!」…俺は高卒1年目の森野将彦に“泣かされた”
1996年に本塁打王を獲得。オフはプロ野球人生で初めて、「キング」として見られる日々が続いた。地方遠征の試合に行けば、学生やアルバイトの子たちが興味本位でバッティング練習をのぞきに来た。 「し…
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高畠導宏さんにはとてもお世話になった。絶不調の俺に手を差し伸べてくれた名伯楽
1996年に「本塁打王」の称号を手にした後、大きなプレッシャーと不安に襲われていた。タイトルを取ったシーズンは終盤の9月から打撃が絶不調。翌97年の春季キャンプになっても調子が回復する兆しはまったく…
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本塁打王を取ったオフ、年を越したら得体の知れない不安と重圧に襲われた
1996年オフの契約更改は年俸1億2000万円でサイン。バラ色のオフを迎えた俺は、名古屋に加えて東京のテレビ局に引っ張りダコの日々だった。 「プロ野球選手というのは、活躍してスターになったら積…
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「1億円プレーヤー」になって買ったご褒美…巨人・松井秀喜に競り勝ち本塁打王、バラ色のオフだった
1996年はバラ色のオフが待っていた。39本塁打でタイトルを獲得。それまで年俸が安かった分、成績かお金かとなれば、やっぱり生活的なものが優先。「もっと稼ぎたい」という気持ちが強かった。 前年…
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あれっ、俺のバットが…減量成功で体のキレが増してもイマイチ調子が上がらなかったワケ
1996年、39本塁打でプロ入り初のタイトルを獲得した。この称号を手にするまで、最後の最後にスッタモンダがあったことは前回書いたが、実はこのシーズンだけ、これまでとは違ったところがあった。 …
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バスタオル一枚の星野監督は鬼の形相でダッシュ、そのまま俺は飛び蹴りを食らった
1996年、プロ入りして初めて、タイトル争いをした。本塁打王を射程圏に捉えたシーズン終盤、ある騒動が勃発した。 タイトル争いは巨人の松井秀喜、大豊泰昭さん、俺の三つ巴。俺が39本、松井が38…
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ゴジラ松井との本塁打王争いのうれしい悩み…スポーツ紙の中身が気になりすぎて毎朝4時には目が覚めた
好調をキープしていた1996年、本塁打のタイトルを意識するようになったのは、球宴明けの8月に入ってからだった。 同僚の大豊泰昭さんが春先からキングを独走。俺は前年、16本塁打だったこともあり…
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星野監督&張本勲さんからの助言に共通した「もっと自分を疑え」。だから俺は調子が良いときでも…
1996年5月1日、巨人のガルベスとの大立ち回りをして一躍話題になったものの、なかなかレギュラーに定着できなかった。 左打ちの愛甲猛さん(95年オフにロッテから無償トレードで移籍)との併用が…
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星野監督時代は「陣形」が存在、いまでは考えられない乱闘の内幕
ここ最近、乱闘はめったに見られなくなった。WBCなどの国際大会が増え、球団の垣根を越えて同じユニホームを着る機会が多くなった。ベース上で敵同士が仲良く話す光景も珍しくない。 オフになれば、違…
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「ガルベスと牛乳で仲直りしよう」…大豊泰昭さんの提案を断固拒否してそれっきり
1996年5月1日、巨人戦で勃発したガルベスとの大乱闘で試合は32分の中断。俺とガルベスは仲良く退場となった。 当時、俺の考えの根底には「外国人に日本の野球をナメられたくない」という強い思い…
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俺と巨人ガルベスの大乱闘の一部始終…落合博満さんのヘッドロックには気を失いかけた
令和になって乱闘は「天然記念物」になった。ただ、俺らの現役時代、特に星野仙一監督時代は日常茶飯事だった。 今でも「乱闘といえば」といって話題にあがるのが、1996年5月1日の巨人戦。ナゴヤ球…
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まさかの故障で失意の最中「お前はラッキー」…トシさんの言葉がなければ今の俺はいない
1996年の開幕前、脇腹を痛めて絶体絶命だった俺は10日間、まったく練習せず球場にも行かない「超安静」を決断した。 オープン戦が終わってトーナメントリーグ(※)が始まっても、家でボーッとする…
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星野監督の意外な優しさに驚いた。開幕直前「脇腹痛でバットを振れない」と報告したら…
1995年オフ、星野仙一監督の指令で、22キロの大減量に成功した。春季キャンプの初日に星野監督の前で体重計に乗り、88キロで計量をパス。無事に2月1日のキャンプインを迎えることができた。 2…
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そうだ、風邪をひけばいいんだ!減量に行き詰まった末、裸同然で極寒の庭へ飛び出した
1995年の秋季キャンプ終盤、星野仙一監督から20キロの減量を命じられた。走り込み、サウナ、食事制限と過酷なメニューをこなし、15キロ減。2月1日の春季キャンプインまで2週間を切り、あと5キロが遠か…
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カムバック星野監督の“2カ月20kg”の無茶ぶりに「嫌です」なんて言えるはずもなく…
「今何キロあるんや?」 1995年オフ、5年ぶりに星野仙一監督が復帰した。2度目の就任だ。秋季キャンプ終盤、監督室に呼び出されるなり、こう聞かれた。 俺が「110キロくらいです」と答え…
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星野監督の退任にガッツポーズも…あまりに早すぎる星野監督の現場復帰に頭を抱えた
これまで星野仙一監督の型破りな言動を書いてきたが、俺も破天荒にならなければ、ここまで生き残ることはできなかったかもしれない。 俺が一軍に定着できたのは1995年の9年目。これだけの遅咲きで、…
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叱責、鉄拳、罰金…試練の日々で星野監督よりも「怖かった人」
星野仙一監督時代の叱責、鉄拳、罰金……。試練の日々で救いだったのは、名参謀・島野育夫さんの存在だった。 星野監督の1次(1987~91年)、2次政権(96~2001年)でヘッドコーチなどを歴…
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敵軍・大野豊さんの“余計な一言”で理不尽すぎる罰金「7ケタ」のとばっちり
罰金の話の続きをしよう。 俺が食らった最高額は100万円。1回目は3年連続で春季キャンプ初日に風邪をひいたとき。2回目は1996年6月15日、広島戦(広島市民球場)でのことだった。 …
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巨人戦の殊勲打で星野監督から"出どころ不明"の100万円、そのぶん罰金もたくさん取られた
「打倒巨人」をテーマに掲げていた星野仙一監督。その熱量の高さは「賞金」にも表れていた。 当時、試合での活躍に応じて、監督賞が出た。ペナントレースを左右する大一番になるとお金を弾んだりするものだ…
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星野監督の鉄拳は「戦略」だった…楽天時代の俺は分かった上であえて皆の前で怒られていた
プロ野球生活の27年間を振り返っても、「闘将」と呼ばれた星野仙一監督は派手なタイプの指揮官だった。 負ければベンチを蹴り上げ、勝っても納得がいかなければ選手を叱った。それを一種のパフォーマン…
