昭和最後の伝説左腕 阿波野秀幸「細腕奮闘記」
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シーズン初勝利の試合直後、投手コーチに言った「肘が痛くて…もう投げられません」
1991年のキャンプ中のことだ。 前年は開幕投手を務めたにもかかわらず、10勝11敗1セーブ。牽制がボークと取られてできなくなったばかりか、ピッチャーライナーを左膝に当てて約1カ月間、戦列を…
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クイックの練習で疲労蓄積 ボークの後遺症に左膝軟骨損傷が重なって膨らんだダメージ
リーグ優勝した翌年の1990年シーズン。キャンプ、オープン戦でも問題なかった私の牽制が、開幕後のあるとき、急に「ボーク」と宣告された影響は大きかった。 牽制は私の大きな武器だった。一塁走者を…
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絶対の自信をもっていた「牽制」が1990年開幕後…突然使えなくなった裏側
あれ? なんだ、この感じは……。 プロ4年目の1990年、自主トレでキャッチボールをしたときのことだ。肩肘が重いというのか、疲れが抜けていないような感覚に襲われた。 3年間の投球回数…
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仰木さんと川崎球場から銀座のクラブに直行…小宮悦子アナとの関係を尋ねると
あれはプロ3年目か4年目、川崎球場でロッテ戦があったときのことだ。 近鉄の宿舎は当時、三田(東京)にあった。そこからバスで球場入りする前、午後3時くらいだったと思う。部屋でくつろいでいると、…
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「パの宣伝部長」を自称した仰木彬監督 ビールの早飲みで使う選手を決めたことも
「来年の開幕は藤井寺球場が、お客さんで膨れ上がるんやないか」 1989年のリーグ優勝後のオフのこと。仰木彬監督はニコニコしながら、私にこう言った。 9年ぶりの優勝でファンが増えると思っ…
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仰木彬監督は私に「野茂のフォームを変えようとするコーチがいたらアンタが止めないと」
「いままではオレがいたから、コーチやOBがあれこれ言っても野茂はいまのままでいいんだと言うこともできた。オレがいなくなるのだから、これから先、野茂の投球フォームを変えようとするコーチがいたら、アンタが…
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野茂英雄が持っていた意志の強さ KOされて違う球種を勧めたら「嫌です」ときっぱり
「これ、あり得ないですよ、こんなこと書かれて……」 あるとき、野茂英雄が週刊誌を見ながら口をとがらせていた。とにかく豪快な男で、食べ物ひとつとってもこれだけ食べるといった内容だった。 …
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トイレで酔いつぶれ、野手のミスに平然…野茂英雄のそんな姿が周囲との距離を縮めた
周りを見渡すと、新人の野茂英雄の姿が見当たらない。いったい、どこへ行ったのか……。 1990年2月の日向キャンプでのことだ。近鉄投手陣は、最初の休日前夜に新人歓迎会をやるのが恒例で、場所は日…
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ドラフト1位で近鉄入りした野茂英雄はマスコミ対応に苦慮…一緒に座禅を組もうと誘った
1989年11月26日のドラフト当日は、近鉄の同僚・村上隆行の結婚式だった。私は彼の披露宴に出席していた。 当時、新日鉄堺の野茂英雄に近鉄を含む史上最多の8球団が競合、当たりクジを近鉄が引い…
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優勝後の契約更改で押し問答に…金額を何度見せられてもしっかりした根拠はなかった
「ちょっと、どれくらいになるのか金額を出してみて」 リーグ優勝した1989年の契約更改。選手との交渉役だった当時の前田球団代表が、横にいる奥田球団部長にこう言った。 奥田部長は持ってい…
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「旅行券をもらった方が良かった」と選手が口をそろえた近鉄V旅行の顛末
一軍にいながらハワイへのV旅行に参加できない選手がいた問題は、選手会長の金村義明さんが球団に掛け合ってくれてクリア、短期間でも一軍にいた選手は参加できることになった。 火種はしかし、それだけ…
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V旅行は一軍にいながらリストから外れた選手も…金村義明さんが球団に掛け合い全員参加
1989年のオフ、ハワイへV旅行に行くことになった。 なにしろ9年ぶりのリーグ優勝だ。V旅行は初めてという選手がほとんど。私も含めて多少はワクワクしたものの、淡い期待は出発前から裏切られた。…
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1989年日本シリーズ後のオフはシーズン中より体調が悪かった
3連勝しながら4連敗で巨人に敗れた1989年の日本シリーズ。 日本一の経験がない近鉄にとって日本シリーズ制覇は、まさに悲願だったこともあり、当時、なぜ私が1、4、7戦に投げなかったのかが話題…
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巨人との89年日本Sは3連勝後に4連敗…私が4戦目に投げなかった裏側
「どうだ?」 1989年の巨人との日本シリーズ。近鉄が3連勝した日の夜だったと記憶している。私は投手コーチの権藤博さんからこう聞かれた。 1年間、先発ローテーションを守り、優勝を決めた…
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89年日本S第3戦後…加藤哲郎の発言を聞きながら「もう、やめておけ」と思った
「別に、なんてことなかったですね。とりあえずフォアボールさえ出さなかったら。打たれそうな気はしなかったんで。まあ、大したことなかったですね。シーズンの方がよっぽど、しんどかったですから。相手も強いです…
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中1日のリリーフ登板から6日後、巨人との日本シリーズ初戦に完投した
「去年、今年と選手諸君が、熾烈(しれつ)な戦いの中で本当によく頑張ってくれました。僕はいま、宙に舞わせてもらったんですけれども、わたしの手で選手一人一人を胴上げしたいですね。本当に素晴らしい選手たちで…
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優勝マジック「1」で迎えた89年10.14 最後の打者には9球すべてストレートを投げた
「きょう決めるぞ!」 残り2試合で優勝マジック「1」。1989年10月14日、藤井寺球場のダイエー戦を前に、近鉄ナインは口々にこう言っていた。 ■1年前の悔しさが糧になった ロッ…
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2試合目の先発に備えて仮眠をとっていたが…ブライアントの同点満塁弾の歓声で飛び起きた
そのとき私は、西武球場の医務室で仮眠をとっていた。 1989年10月12日のダブルヘッダー。近鉄が優勝するためには連勝するしかない。1年前の川崎球場と似た状況で、1試合目の先発は高柳出己に。…
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あの「10.19」から1年後…パ・リーグ優勝争いはまたしてもダブルヘッダーに
最後の試合に勝てなかったけれども、負けたわけではない。1988年10月19日、川崎球場のダブルヘッダーで経験した悔しい思いを私はもちろん、近鉄の選手全員が忘れてはいなかった。 翌1989年の…
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仰木監督の言葉の深さ パ優勝が消えたとき「勝てないまでも負けなかった」意味
「最後の力を振り絞ったわけですけど……残念ながら、こういう結果になってしまいまして……精いっぱい、戦ったし、悔いはありません。この集団と一緒にやれた幸せをいま、しみじみと感じております」 ダブ…