保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(52)大戦終了後、どれほどの「頭脳」が他国に流出していったのか
日本のウラン爆弾の製造計画を確認していたアメリカの科学者の中には、個々の日本人研究者の能力について極めて精緻に分析した報告書を作り上げた者もいた。その過程で、「あなたはアメリカに亡命して原子核エネル…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(51)戦後、原爆製造に関わった科学者たちに芽生えた新たな恐怖
昭和20(1945)年8月15日を迎えて、最も喜んだのは科学者たちかもしれない。本土決戦をいとわない軍人たちからの哀願というべき、「ウラン爆弾はいつ作れるのか」「いや早く作れ」という命令や恫喝からも…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(50)原発開発計画に加わった科学者は戦後、熱心な反核運動支持者になった
敗戦を認めまいとする陸海軍の本土決戦派は、ウラン爆弾によって戦況を一転させることを考えていた。それゆえに、ウラン爆弾がどれほどの時間や国力をかけて製造が可能なのか、全く見通しを持っていなかった。ただ…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(49)敗戦を受け入れられず、米国への原爆投下を夢想した軍部
陸軍の高級軍人が言い出した「原爆特攻」などに見え隠れしているのは、敗戦を受け入れられない、存亡を懸けて本土決戦を行うのだ、それにはどんなことでもやってのける、という本心であった。アメリカのマンハッタ…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(48)秘密工場とロケット特攻、軍部の断末魔
広島、長崎への原爆投下は、結果的には日本に敗戦の現実を教えた。むろん本土決戦に固執する日本の軍部は、こういう兵器を前にしても敗戦を認めず、ひたすら聖戦遂行を口走り、その思いを他の集団にぶつけていた。…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(47)新型爆弾製造の失敗が日本の敗戦を決定づけた
広島に続いて、長崎にも原子爆弾は投下された。8月9日の午前11時過ぎのことである。宮中では御前会議が開かれているときであった。ポツダム宣言を受け入れるべきという政治の側と本土決戦によって活路を開くべ…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(46)政治家と軍人でねじれていた日米の奇妙な構図
マンハッタン計画による原子爆弾の開発、製造という現実は、太平洋戦争におけるアメリカ側の戦い方に原則的な問いかけを提示したこともうかがえる。それは「政治」と「軍事」の関係の本質を問うものである。日本で…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(45)陸軍長官スティムソンにもうかがい知れる罪の意識
ここで原子爆弾を投下した側の政治家たちは、いかなる反応を示したのかについて触れておきたい。というのは日本の軍事指導者が、ウラン爆弾の完成をひたすら科学者に強要するさまを見て、こうした指導者が、人類史…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(44)科学者や女学生に広島市内で活動させた軍部の身勝手さ
放射能を恐れる陸海軍の指導部は、結果的にと言っていいのだが、広島には入っていない。科学者には現地調査の名目のもとに、広島の視察を依頼していながら、自分たちはそれに同行していない。そのことを私に語った…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(43)広島の原爆投下を受け、軍部は原爆開発に拍車をかけた
実は仁科芳雄は、広島から戻ると門弟の科学者に、書簡であるいは口頭で、これはウラン爆弾と思われるが、そうだとすれば「私たちは米英の科学者に敗れたということを意味する」との深刻な内容を伝えている。最終的…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(42)原爆投下後、広島に現地入りした科学者たちの驚き
それどころか陸海軍の首脳陣の集まった原子爆弾委員会の意見は、この被害は本来のウラン爆弾の威力からすれば数分の一程度であると予想したのである。ありていに言えば、こうした見方を前面に押し出すことで、科学…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(41)原子爆弾委員会が黙殺した科学者たちの報告
広島への原子爆弾投下について、このシリーズでは2つのことを強調しておきたい。それは次の点である。 (1)軍事指導部は、これがウラン爆弾という新型の大量殺人兵器であることを認めまいと必死になった…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(40)福島県石川町で中学生時代に勤労動員された男性の証言
広島への原爆投下後も、日本のウラン爆弾のウラン鉱石探しは続いていた。爆弾製造の最初の段階ともいうべきこの作業について、触れておかなければならない。「ニ号研究」にせよ「F号研究」にせよ、前提になるのは…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(39)自分たちの研究姿勢は変えない──荒勝文策研究室の抵抗
では京都帝大の荒勝文策研究室はどのような状態になったのか。 海軍艦政本部は当初は「研究だけでいい、製造開発などまでは必要でない」との態度であった。しかしサイパン陥落の要因にもなった「あ号作戦…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(38)「二号研究」はB29の爆撃とともに燃え尽きた
竹内柾らの分離班チームが分離筒を試行錯誤の末に作り上げたのは、昭和20年の初めのことであった。それは高さが5メートルにも及び、幅は50センチを超えていた。この分離筒に六フッ化ウランを入れて濃縮ウラン…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(37)二号研究に見る戦争と科学者の宿命的な関係
その仁科芳雄を師と仰ぐ竹内柾は、「ニ号研究」では分離法研究の一員であった。竹内の証言によれば、仁科からウラン爆弾の研究をしてみろと言われ、班に組み込まれた。といっても兵器のことなど知らない、ただの原…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(36)ソ連、ドイツ、日本-ウラン爆弾開発の分水嶺
「ニ号研究」や「F号研究」に加わった科学者や研究者に話を聞いていて、私(保阪)は、戦争と出会った彼らの苦衷が実によく理解できた。自らの研究テーマが、戦争では最大の効果を発揮する殺人兵器に転じるというの…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(35)科学者はウラン爆弾製造にどのような責任を感じていたのか
ウラン爆弾製造のプロセスについて、その概略を紹介してきたのだが、ここで科学者の本音はどこにあったのか、具体的に物理学者の証言や本音を語っておきたい。私はこの取材時(つまりウラン爆弾製造に協力体制を余…
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シリーズ「第2次世界大戦と原爆」(34)日本原爆研究の限界と米国の国力
昭和50年代から60年代にかけて、私は原子物理学者や陸海軍の技術将校に会い続けた。日本がウラン爆弾を持たなかったことは、それはそれで喜ばしいと思ってのことであった。多くの物理学者もその点を肯定した。…
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シリ-ズ「第2次世界大戦と原爆」(33)二号研究の真実 仁科研究室が決めた熱拡散方式
ウラン爆弾の製造プロセスをなぞってみると、一つ一つの段階がいかに大事業かがはっきりとしてくる。第1段階のウラン鉱石の確保が思うように進まず、「とにかくウラン鉱石を10キロ集めろ」と叫んだ軍事指導者は…
